曹洞宗金剛山象王窟

伊勢寺

大阪府高槻市奥天神町伊勢姫隠棲跡 /能因法師奉安所

平安の時を刻む伊勢姫ゆかりの古刹

大阪府高槻市にある金剛山象王窟伊勢寺は、三十六歌仙の一人であり百人一首や古今集にも多くの歌が採られた 平安時代の女流歌人伊勢姫の住居跡に建てられた曹洞宗のお寺です。

御本尊は聖観世音菩薩。 自然豊かな山内の墓地には伊勢をはじめ、室町時代の戦国武将和田惟政、詩人高階春帆、その他多くの地元名士が眠っています。 また、喧騒から離れたひっそりとした境内では、伊勢も歌に詠んだ春の桜や、境内を真っ赤に染める秋の紅葉をはじめ、 紫陽花、萩、イチョウなど四季折々の自然豊かな景観を楽しむことが出来ます。

お寺は皆様にとって“心やすらぐ聖域”だと考えております。 参拝者の皆様が市街の喧騒を離れ、ほっと一息つける場所、自分を見つめ直す場所でありたいと思います。

また、本来寺院は、人々にとって『参禅聞法(さんぜんもんぽう)』の場、僧侶にとっては行道・布教の場であり、 常に開かれた場所であるべきだと思っております。 お寺では折に触れて様々な行事を行っております。 詳しくはお寺の掲示板やインスタグラム、フェイスブック等をご覧下さい。

伊勢

伊勢姫の絵

百人一首第19番 伊勢

難波潟 短きあしの ふしのまも 逢はでこの世を 過ぐしてよとや

伊勢姫は、時の貴族 父 藤原継陰が伊勢の守であったことから、国の名をそのまま「伊勢」と呼ばれた。 伊勢は七条の后の女御として仕え、当時皇太子であった宇多天皇の寵愛を受け、行明親王を産んだ。 しかし、行明親王は不幸にも八歳で亡くなり、また宇多天皇も三十一歳で譲位され御室(仁和寺)に移られた。 伊勢も桂に移り住んで和歌に励み、多くの歌集を残した。勅撰和歌集「古今和歌集」には小野小町の18首をしのぐ22首が選ばれている。 一方で、宇多天皇の皇子・中務卿敦慶親王の愛を受け、女流歌人中務(なかつかさ)を産んだ。 中務も優れた女流歌人であり、伊勢と共に三十六歌仙に選定されている。 伊勢は宇多法皇崩御の後、この地古曽部の里に幽棲し宇多法皇と行明親王の御霊を祀り、その多彩な生涯を閉じた。

伊勢寺では、伊勢廟を修築した際に地中から出土した伊勢姫遺愛の古鏡、古硯、その着物の一部分である蜀江錦一片(しょっこうにしきいっぺん)を寺宝としてお祀りしている。

伊勢姫の鏡

古鏡

伊勢姫の硯

古硯

蜀江錦一片

蜀江錦一片

※常時一般公開はしておりません

能因

能因の絵

百人一首第69番 能因

嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり

能因は、平安末期の歌人。俗名を橘 永愷(ながやす)という。永延2年(988)、 橘 為愷(ためやす)の次男として生まれ、兄・元愷(もとやす)に養われたと伝えられている。 当時の歌道の第一人者であった藤原長能に師事し歌を学んだ。 歌の師匠を持った初めての歌人であり、師伝相承のはじまりといわれてる。 26歳で出家し名を能因と改めた。僧侶として清貧の生活に徹するということではなく、 『僧』でもなく『俗』でもなく、諸国を旅する非俗非僧の歌人として歌に没頭する日々を送った。

生きた時代は違うものの、伊勢を敬慕し歌の世界の「師」と仰いでいた能因は、出家と同時に伊勢の旧居のあった古曽部の里に草庵を構え、 自身を『古曽部入道 能因法師』と称した。 高槻市古曽部町には、能因法師の墓所と伝わる「能因塚」や能因法師の筆が収められた「文塚」などの史跡が今もある。 能因塚にある『能因法師顕彰碑』は、慶安3年(1650年)に高槻城主・永井直清によって建立された。 その碑の碑文は林羅山によるものである。

能因塚

能因塚

能因塚

能因塚

文塚

文塚

伊勢寺の歴史

伊勢の没後、伊勢の弟・伊勢貞国が伊勢の屋敷跡を寺として寄進し、伊勢の菩提と伊勢が祀った宇多法皇と行明親王の菩提を弔ったことが『伊勢寺』の始まりと伝えられている。 その後、高山右近が高槻城主となり織田信長に攻められた天正の頃に、伊勢寺をはじめ藩内多くの寺社がキリシタン暴動や戦乱の兵火で焼失、 当時の住職東雲和尚は、わずかに草庵を建て法灯を守り続けた。

現在見られる堂は、徳川家康によって戦乱が収まった後の元和元年(1615年)頃、 時の住職・松間宗永和尚の尽力により寺運大いに栄え、 高槻城主の庇護(ひご)のもと檀信徒の熱意と協力を得て再建が計られた。 10年以上の歳月をかけ建立され、大本山總持寺(現在の能登の總持寺祖院)より太嶺薫石大和尚禅師を『当山中興開山第一世』として拝請した。 この時に天台宗から曹洞宗に転じ、400年以上経た現在もなお總持寺直末として曹洞禅の古風を宣揚し、伊勢姫以来の法灯を守り続けている。

本堂

本堂

本堂の扁額

本堂の扁額

扁額の原本

扁額の原本

  • 本堂伊勢寺の本堂は通常の禅宗様式の本堂とは異なり、平安時代の寝殿造りの様式を踏襲している。
  • 本堂の扁額本堂にかかる扁額は、江戸初期の傑僧、東皐心越(とうこうしんえつ)禅師の筆である。 心越禅師は来航早々に幽閉されかけたところを水戸光圀(水戸黄門)に助けられ、水戸に下ったと言われている。
  • 扁額の原本本堂の扁額の直筆の原本を寺宝として大切に保管している。(非公開)

御本尊

御本尊

隠元禅師の書

隠元禅師の書

伊勢寺記

伊勢寺記

※常時一般公開はしておりません

  • 御本尊 本尊『聖観世音菩薩立像』は、伊勢姫の生きた平安時代初期に慈覚大師によって作られたと伝えられる。 戦禍に耐え、雪風にも犯されず、平安の頃そのままの慈悲のお姿で我々を見守っておられる。 現在は客殿2階の研修道場の御本尊としてお祀りしている。
  • 隠元禅師の書 インゲン豆でお馴染みの宇治の黄檗宗大本山萬福寺の御開山である隠元禅師は、 萬福寺に入山される前の5年余り高槻市の普門寺に滞在された。 その間の明暦3年(1657年)、伊勢寺を訪れ『丁酉仲春遊伊勢寺』と題した書を残された。
  • 伊勢寺記 伊勢寺には『伊勢寺記』と題する一巻の巻物が保管されている。 筆者は法華宗の僧である元政上人。京都深草の人で、病気療養のため度々高槻の漢方医を訪ね、 その都度、高槻藩の武士の屋敷に逗留したといわれる。その間に伊勢寺を訪れ、『伊勢寺記』を残した。